＊前代未聞＝あまりにもふつうと違っていて、今まで聞いたことのないこと。
クロロの目が恫喝していた
元々目力は強烈で、ある意味言葉以上に物を言う
女の子を口説くには、濡れた艶のある視線で
逆に脅すには空気を震わし、相手を威圧で押し潰しそうな眼光で迫る
あらゆる感情を眼差しの中に閉じ込めることの出来る男
まさに『目は口ほどに物を言う』を、地でいっている
（ぜんだいみもん）クロロと俺の関係は一対の蜘蛛を成す。
クロロが頭なら、俺はそれをサポートする足の一本。
だがこの関係は幻影旅団として活動をしている時だけで、普段はわりとフラットな関係。
互いに子供の時からの付き合いで、酸いも甘いも知り尽くしている。
だからこそ、プライベートでクロロの目が恫喝してきた時は……
今まさに目の当たりにしたものは、見てはいけないものを見てしまったのだと実感させられてしまう。
まさに前代未聞のものを、俺はしっかりとこの目で見てしまったのだ。
とはいえ、笑いがこみ上げてくるのを堪え、クロロの目の前では口元をひくつかせまいと必死になっていた。
こんなところで笑った日には、瞬殺されてしまうかもしれない。
大抵の場合、クロロと顔を合わすのは仕事がらみ。
それが珍しくプライベートでクロロと出くわすなんて……
子供の頃からの付き合いとはいえ、互いに大人になってからの私生活はほとんど接点がない。
携帯があればすぐに連絡は着くし、居場所に拘る必要はなかったから、どこを生活の拠点にしているかは知る由もなかった。
互いに隠れ家と称する場所はいくつも構えているのだから。
それが偶然にも、とある国のとある場所で出会ってしまったのだ。
しかも歯科医院という、色気もそっけもない場所で。
昼食の後、急にしくしくと歯が痛み出し、大事になる前に飛び込んだ歯科医院。
携帯で近くにある医院を検索する。
キーワードで選んだ条件は、歯科・女医・美人・評判だった。
かなり都合のよい条件だけど、どうせなら楽しく治療を受けたいから。
すぐに携帯で予約を入れたが、『今日の予約は終わっているので』と丁重に断わられてしまう。
そこで俺は緊急性を訴え、強引に予約を取り付けた。
その医院は瀟洒な住宅街にあった。
清潔感溢れる気持ちのよい待合で、週刊誌を開き自分の順番を待つことに。
完全予約制ということもあり、患者は俺と治療中の２人しかいない。
歯科独特の歯を削る音が目の前の診察室から微かに漏れてくる。
肩に力が入り、妙に緊張してしまう。
おかげでソファーに深く腰掛けていたはずが、いつのまにやら背筋を伸ばして浅く腰掛けている。
心の中で、歯を削られずに済みますようにと願っている時だった。
静まりかえった診察室に、若いきびきびとした女性の声が。
「あらっ。目に涙なんか浮かべて。痛くなかったでしょ？いつも大騒ぎなさるから、特に今日は注意を払って削ったんですよ。この間なんて、削る前からタービンの音を聞いて騒がれるものだから。子供だって我慢するというのに、大の男が泣くなんて……でも、今日はよく頑張りましたね」
どうやら女医が患者に話しかけているようだが、何と情けない男か。
他にも軽い笑い声が漏れてくるが、助手の女の子でもいるのだろう。
確かに口の中でタービンが廻る音は、器具が歯に触れなくても頭骨に響き、あまり気持ちのいいものじゃない。
ましてや歯を削っている最中に、神経に触れようものなら悲鳴をあげたくなる。
でもそこで耐えるのが男だろ！！
怖さのあまり、歯医者で泣く男の顔を見たくなってきた。
一度気になりだすと、居ても立ってもいられない。
男は治療が終わればこの待合に顔を見せるだろうが、待っているのがまどろっこしい。
どうしようもない好奇心の虫が騒ぎ出し、読んでいた週刊誌をソファーの上に置き、診察室を覗こうと足音を忍ばせながら扉に近づいた。
「へんなところを触らないで！危ないでしょ！治療ミスしたらどうするんですか！？……可哀想な俺を慰めさせろって、何をふざけているんですか。今は大切な治療中ですよ。これ以上悪ふざけするなら、即刻帰っていただきます」
気丈な女医は声を抑えていたが、明らかに怒っている。
患者の男は意気地がないだけでなく、狒狒爺ときているようだ。
いったいどんな奴なのかと際限なく大きくなった好奇心の塊が、引き戸になった扉をゆっくりとスライドさせる。
吊り戸になった引き戸は少しだけレールの擦れる音がしたが、削られる歯の音に完全にかき消され、診察室の中にいる人間は気が付かない。
清潔さを強調した白い診察室の中央に、治療用の椅子がほぼ床と平行になるまで倒されている。
残念ことに手前に女医がいるため、狒狒爺の顔が隠れて拝めない。
障害物となった女医の身体からはみ出して見える頭はふさふさとした黒髪で、身長は１８０センチほど。
着ているスーツもかなり値段が張りそうだ。
狒狒爺改め、小心翼翼な金持ちエロ青年。
エロ青年の小心を表すように、胸元で握る拳が異常に力の入っているのが分かる。
たぶん掌の中は汗でぐっしょりだ。
あぁ……顔が見たい……少しでも顔を見ようと、数センチしか開いていなかった扉の隙間が徐々に広がって行く。
その時だった。
診療室の奥から鳴る電話の音に、女医と反対側に座って手伝っていた助手が立ち上がる。
女医はピンクのＶ襟エプロンを着た、可愛らしい助手を見送った。
診察室に残された医者と患者……
女医は手を休め、小さな声で話しかける。
先ほどの毅然とした声とは打って変わり、甘く、幼児をあやすような口調。
「……痛かったでちゅか～」
あまりの変わりように、『へっ！』と、口の中で間抜けな声を出してしまう。
俺は慌てて口を手で押さえた。
声を出していないにも係わらず、ピーピング・トムのような行為の真っ最中だけに、心臓がばくばくし始める。
「痛くなかったでちゅ～。我慢したでちゅ～。だから御褒美が欲しいでちゅ～」
男も信じられない舌足らずな甘えた声をだし、椅子から腰を浮かした女医の胸を撫ぜているではないか。
たぶん撫ぜているはず。
俺の位置からでは女医の背中しか見えないが、男は女医の側へ身体を捻り、反対側の手が胸のあたりを弄っている……ように見える。
女の方も応えるように、艶かしく腰をゆっくりと揺らしている。
二人の関係が医者と患者に留まらず、男女の関係であることはすぐに分かったが、赤ちゃんプレイに徹している姿に毒気を抜かれてしまう。
「いい子ちゃんには、後で御褒美をたくさんあげまちゅよ～」
「嬉しいでちゅ～」
喉をごろごろと鳴らさんばかりの甘えた声が気色悪い。
どこまでアホなんだ、このカップルは……
しかし御褒美とは、きっとアレに違いない……いくら赤ちゃんプレイをしていても成人カップルなのだから。
どんな房事を行うのかと、興味本位で覗いてみたい気もするけれど……
ちらりと見えた女医の横顔は、アイジエン大陸系の涼やかな目鼻立ち。
美しい黒髪をアップにし、モノトーンのビーズで飾られたバレッタで止めている。
一連のきびきびした動き……白衣をまとう姿は見るからに出来る女。
美しさと腕の良さはサイト上でも、最高の評価を得ていることに納得出来る。
もしもここにクロロがいたならば、この女医を即行で口説いているに違いない。
男の方は別にして、赤ちゃん言葉を使う女医のギャップが妙に艶かしく、とてもいやらしく見えてしまう。
あんな女医にだったら、赤ちゃん言葉で話しかけてもらってもそれはそれで楽しいかもしれない。
ピンクな妄想が膨らみかけた瞬間、奥の部屋から大きな声で。
「先生。患者さんからなんですが、出先で歯が痛み出したそうです。どうしましょうか？」
「今そっちに行くわ。少し待っていただいて」
女医は胸元を整えると奥の部屋へと消える。
同時に男も反対側へ身体を捻り、彼女を見送る。
結局障害物がなくなったというのに、反対側を向いてしまった男の顔が確認出来ない。
思わず『チッ』と軽い舌打ちをすれば、常人ではまず気が付かぬ音に男が反応した。
しまった！と思ったのと、振り向いた男との視線が重なったのは同時。
間合いが悪いとはこんなもの。
冷静であれば迷わず扉を一瞬で閉めるところ、見たいという欲望が強く、ついつい小心翼翼な男の顔を見てしまう。
僅かに開いた扉越しに交わる視線。
心の中で互いの叫び声がシンクロする！
『シャル！何でお前が！』 『何でクロロが！』
言葉にならぬ言葉が視線となって火花が飛ぶ。
『シャル、何見てんだよ！誰かにこのことを喋ってみろ、どうなるか分かっているよな！！』
視線で恫喝する男は幻影旅団団長のクロロ＝ルシルフル。
先ほどから鼻にかかる舌足らずの声の主。
瞬時でこの拙い状況を把握したようだ。
Ａ級賞金首として恐れられるクロロ＝ルシルフルも人間だ。
虫歯になれば歯も痛むだろう。
だが先ほどの小心翼翼は……
蜘蛛にとってカリスマ的な男が赤ちゃん言葉で話すなんて、衝撃以外の何物でもない。
俺は口元がひくつきそうになるのを必死に堪える。
怒を発するオーラに後ずさりしながら、ゆっくりと扉を閉めた。
ほどなくして治療の終わったクロロが診察室から出てくるが、まったく視線を合わせようとはしない。
同時に俺の名前が診察室の中から呼ばれ、ソファーから立ち上がる。
そ知らぬふりをしてすれ違う俺に、いつもの聞きなれたテノールの声が……
「シャル。赤ちゃん言葉も慣れるとけっこう楽しいぞ」
本気なのか？悪い冗談なのか？はたまた女医を喜ばすためのプレイなのか？
クロロが赤ちゃん言葉を使うところは聞いたが、女医が障害物となってクロロの面持ちを見ることは出来なかった。
長年の付き合い……表情の変化を見ればその真意は分かったはずだが、真相は藪の中。
どちらにしてもクロロ＝ルシルフルの前代未聞の姿を垣間見たことに変わりはない。
「それでいつ頃から痛み始めたんですか？」
問診表を片手に、治療椅子に腰掛けた俺に質問してくる女医の顔をさりげなく見た。
まじかに見る女医は美しいだけでなく、知的に見える。
だが先ほどの赤ちゃん言葉が頭から離れず……
「お昼を食べてからでちゅ～」
口をついて出てしまった言葉は消しゴムでは消せない。
見る間に顔が赤くなっていく女医。
その後の気まずさと言ったら……
今日は飛び込みの俺が最後の患者。
この後、女医はクロロと楽しくデートだろう。
きっと俺のことが話題になるはずだ。
クロロはどんな反応を示すやら。
『クロロの反応が怖いでちゅ～』
いつもと違うクロロの有様を見てしまい、こちらもどう反応してよいのやら。
この由々しき問題を仲間の誰かに話したい衝動にかられるが、言葉にならぬ言葉を思い出す。
俺もまだ、こんなことで命を落としたくないからさ。
End
2016/09/13 改稿
2010/01/23
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