Phalcnothdk 5
閑静な住宅地に、小さいながらも自宅と呼べる一軒家を手に入れた。
木造の瀟洒な二階建で、庭と呼べるものもあれば、私のお気に入りのスパイダー注１を停められるガレージも付いていた。
出来合いの家だったが水廻りのデザインがとても気に入り、この物件に決めた。
家の前には大きく育ったユリノキの街路樹が続き、その先には樹木が茂る公園。
そのおかげか、夏場でもさほどの暑さは感じられない。
木立の間を吹き抜ける風と緑が、私に安らぎを与えてくれる。
ここが何よりも良いのは、穏やかで親切な隣人達と気さくに付き合えることだった。
ほんの数年前まで、こんな生活は夢の夢のまた夢だった。
温めの風呂にいつもより長く浸かった後、パウダールームの鏡の中にリラックスした素顔のあたしが映し出される。
銀幕のスター達が楽屋で使っていたハリウッドスタイルの鏡。
両サイドに合わせて十個のランプが鏡を照らす。
「……あらっ、やだ」
ピンク色に染まる首の付け根に、ぷっくりと赤く盛り上がった虫刺されの痕が一つ。
いつのまに刺されたのかしら？
気が付いてしまえば急にむず痒く、爪をたてて掻きたくなるが、ぐっとその衝動に耐えれば遠い昔の記憶が蘇る。
その年の夏も暑かった。
うだる暑さの中、日が陰ってからのゴミ拾いに備え、あたし達は少しでも風が通る日陰を求め、ゴミ山に点々と生える木の下で昼寝をしていた。
掘っ立て小屋のホームでは風が通らず、日陰は確保されても室内の蒸れで熱中症を起こしかねない。
逆に外はここちよい風は通るが、鼻の曲がりそうなゴミの腐る臭いが充満し、蠅などの虫が我が物顔。
身体にゴミの臭いが染み付くのは嫌だったが、サウナのようなホームに比べれば、まだ外の方がましといえた。
虫に関しては防虫作用のある草を寝床の周りに置いておけば、いくらかは虫よけになる。
普段から博識のクロロが、集めて乾燥させておいたハーブ。
あたし達は地面に大判のタオルを広げ、皆、思い思いに横になる。
私は日に焼けるのを避け、薄い長袖の開襟シャツにジーンズという姿で横になる。
日焼けせぬよう顔にタオルをのせ、うつらうつらとしていた。
右側では時折り聞こえる豪快なウボォーのいびき。
左側ではシャルの寝息が一定のリズムを刻む。
木陰になったワンシーンだけを切り取れば、信じられないほど平和な光景で、だれがここを流星街最悪の地区だと信じるだろうか。
大人ですら日中は、暑さの中で活動をする者はいない。
概ね昼食の後は体力の消耗を避け、昼寝をして過ごすのだ。
あたしは無意識にはだけた胸元を掻こうとしていた。
たぶん何かの虫に刺されたのだろう。
痒さのあまり爪をたてようとした瞬間、私の手は軽く押さえ付けられ、小さな声が耳元で囁く。
「掻くなよ。パクは肌が白いんだから、掻けば痕が残ってしまう」
聞き慣れたテノールの甘い声に意識は覚醒され、胸が大きく高鳴った。
いつの間に眠る私の枕もとに来ていたの……
早鐘のように打つ鼓動と、内部から湧き上がる熱。
おかげで口元がべたついてくる。
何とか思考能力を保ち、眠る周りに遠慮するように……いいえ、まるで二人だけの秘め事のようにあたしは声を潜めた。
「……そんなこと言ったって、痒いのよ」
「しょうがないな……」
声の主は握っていた手を私の身体の横に置くと、ボタンを一つ多く外した胸元に指先を当て、爪をたてぬように痒みのある場所を優しく掻いてくれる。
そう……肌に傷を付けぬよう、軽く優しく掻いてくれただけ。
たったそれだけのことが、私の胸をときめかす。
顔にのせたタオルのおかげで、あたしの表情は知られずに済んだ。
「これから薬草を採ってくるから」
立ち上がる気配を枕もとに感じながら、あたしを喜ばす言葉に更なる胸の高鳴りを感じてしまう。
昼寝の時間が終われば仲間達は、虫に刺された場所に薬草を塗り付ける。
『これから薬草を採ってくるから』は、あたしのためだけではなく皆のための言葉。
「一週間前に夕立が降ったせいか、蚊が水たまりに卵を産み付けたから、鬱陶しい奴らが多いな」
「でもクロロのドライハーブのおかげで、だいぶ刺されずにすんでいるけどね。しかも虫刺されに効く薬草まで用意してくれているんだから」
ウボォーとマチのやり取りを、あたしは冷静に聞いていた。
確かにクロロは私のためだなんて言わなかった。
私が勝手に思い込んだだけのこと。
……なんてつまらないことを思い出したのだろう。
鏡に浮き上がった首筋の虫刺され痕を見て、甘酸っぱい想いがこみ上げる。
十年以上も前の話しなのに……
『掻くなよ。パクは肌が白いんだから、掻けば痕が残ってしまう』
それって、私の肌は美しいと褒めてくれている？
少しだけ勘違いしてもいいですか、団長
注１ スパイダー（Spider ）とは、スポーツカー/スポーティーカーの意味で、主にオープンカーを指す。低い車高がクモを連想させることから、この名前がついている。
End
2017/06/03 改稿
2014/12/16 加筆・修正
2010/07/25
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