Matiy 12
耳元で囁かれた頼まれごとは、思いやりのない言葉
そして思わず心の中で呟いた言葉は不平不満
羅列される言葉に報われることのないことは知っていたけれど
それでもなお……残酷な言葉に逆らうことが出来ず、無表情で服従してしまう
そしてその後で、壁の向こうから漏れる切ない声に、あたしは耳を塞ぐ
時が経つほどに、蓄積されていく想いと苦しみ
いつしかあたしの手は塞いでいた耳を離れ、ぬかるむ下肢へと指が這う
あの男の気まぐれは多岐にわたり、あたしの心をかき乱す。
男の中には理路整然とした流れがあってのことらしいが、あたしにはそんな複雑なことは分からないし、訊いたからといって答えてくれる保証もない。
もっともあたし自身、『どうして？』などと訊くのが怖くて、頼まれれば断わることが出来ずにいた。
断わったところで旅団としての仕事に支障はないのだろうが、従わないことによって信頼を失うのではないかと……不安を覚えてしまう。
だからあの男の頼みごとには不満を持っているくせに、いつだってあたしは従ってしまう。
欲した物が輝く小さな石、美術品や古書だったら問題はない。
だが時として、あいつは息づくものを奪ってくる時がある。
そしてまた、あたしはあの男の部屋に呼び出される……
意地悪なゲームの始り……
それはあたしに対してではなく、攫ってきた獲物を屈服させるためのゲーム。
何も辛気臭いホームなんぞに連れてこなくたって、あんたならどこでだって、美しい獲物をひざまずかせることは出来るだろうに。
なのに何故……
その夜のホームはあたし一人だった。
ホームを根城にするフランクリンも久しぶりに浮いた話しがあり、最近はホームを留守にすることが多い。
おかげであたし一人がホームで過ごすことが多くなっていた。
もっともフランクリンが居たところで、互いに干渉することはないので気楽なもの。
たまに帰ってくる他の団員達も挨拶を交わす程度で、彼らも数日を過ごして知らぬ間に姿を消している。
今夜もまた、孤絶した時間を過ごすはずだった。
深夜少し前、静まりかえるホームに近づく車の音に、二階の自室で横になっていたあたしの全神経が集中した。
ホームの玄関先に停まる車の音。
車から人の降りてくる気配。
その人は迷うことなく玄関の扉を開けて入って来る。
円を張るまでもなかった。
かって知ったる気配は、秘かに待ちわびていたもの。
喜びに震えながら勢い良く寝床から飛び起きようとしたが、あたしの身体は一気に強張ってしまう。
吹き抜けになったサロンに備え付けられた階段を上がってくる靴音が、重くホームに響く。
どんなに落ち着こうとしても、心臓が早鐘のように打って酸欠を起しそう。
二階に上がってきた人物は、どん詰まりにある自室に向うため、真っ直ぐ延びる廊下を歩いて来る。
廊下の左右には、蜘蛛の手足となる団員達の部屋が六部屋ずつある。
私の部屋は階段を上がり、手前から四番目。
つまりあいつの部屋とは一部屋おいていた。
コツッ、コツッと近づく音に、口から心臓が飛び出しそうだ。
部屋の前で止る靴音に、あたしは息を殺す。
「マチ、起きているんだろ。すぐに俺の部屋へ来てくれ」
テノールの声が有無を言わせない。
再び歩き出す靴音……
いつもより少しだけ詰まった歩幅と重い靴音は、何か重たい物を持っている証拠。
それが意味するものを、嫌というほど知っていた。
憂鬱な気分で寝床から這い出し、色気のないジャージ姿で、壁に掛かる鏡に映る自分を眺め、慌てて乱れた髪に手櫛を入れる。
そしてだらしなく崩れた襟元を整えた。
いつだってあいつが帰ってくるのは突然だ。
本来なら久々に会えることで沸き立つような気分になるところなのだが、今の気分はあまりにも重い。
心が激しく揺らぐのを、あいつには悟られたくなかった。
あたしはいつだって平然を装うのだ。
「団長、入るよ」
あの男の部屋の前で呼吸を整え、一言声をかけてドアノブを握る。
本当なら逃げ出したいのに……見たくはないのに……
それでもあたしは自分の想いではなく、あいつの想いに従ってしまう。
軋む扉をゆっくりと開け、一歩だけ足を踏み入れる。
そこには予想どおりの光景が待っていた。
オイルランプが一つ、ナイトテーブルの上を臙脂色に照らしている。
正面に備えられたシングルベッドの上には、一人の若い女が揺らめく明かりの中に照らしだされる。
長く艶のある黒髪が、白いシーツに波打つ。
アイジエン大陸系の女はじっと動かず、意識を失っているらしい。
目隠しと猿ぐつわをされて顔の大半は見えないが、輪郭や覗き見える鼻の形の良さから、さざかし美しい女なのだろうと推測出来る。
しかもロングの夜着だったと思われる布は、太腿まで鋭利な刃物で切り裂かれ、美しく伸びた脚が露わになっていた。
胸元の布も同様に腹部まで裂かれ、かろうじてたわわな胸を隠す。
そして手首足首を、細い布で縛り上げている。
訊くまでもなく、二人の間に何が起きたのか、凡そのことは理解出来る。
そしてこれから何が行われるのかも……
ただ理解出来ないのは、何故わざわざこんな遠い所に、いつも連れて来るのかだ。
外の世界には、いくらでもあんたの隠れ家があるのに……
だがそんな質問は出来ず、目の前の現実だけを見ていた。
「マチ、久しぶりだな。元気だったか？」
あたしにとって甘く、性的な刺激のある声が耳を擽る。
しかもその声は、あたしの耳元で囁かれたものだから、緊張のために太腿のところで握り締めていた拳が、思わず緩んでしまう。
もしも肩幅で広げた足を踏ん張っていなければ、へなへなと腰が砕け、その場にへたり込んでしまったかもしれない。
そのくらい、あたしにとってこの男の声は魅力的なのだ。
否、声だけじゃない。
接近することで、あたしの大好きな香りが鼻の奥を刺激する。
あたしが扉から一歩入ったところで、女に目を奪われて立ち尽くすことなんて、この男にはお見通しだったのだ。
だからそれを見越し、扉側の壁に影のように寄りかかり、私の隙をついて耳元で囁いた。
なんて意地が悪い男なのだと思いながらも、下腹部が熱くなってくるのを認めないわけにはいかなかった。
「深夜に悪いな。見てのとおりなんだ。ここに来るまで車を飛ばしてきたんで、何も食べていない。何か食べるものを、簡単でいいから作ってくれないか」
……心の中で舌打ちをする。
それでも不思議なほど、冷静に受け答えをしていた。
「ああ、いいよ。そんなことくらい。それで食事は、二人分作ればいいんだろ」
「気が利くな、マチ。いつも助かるよ」
形の良いあいつの口から、あたしの名が柔らかく口にされる。
私は踵を返し、一階にあるキッチンへと向う。
階段を下りながら呟いていた。
「何であたしが……」
さすがに、『あんな女のために！』とは、言葉にはしなかった。
……あの女もまた、被害者なのだ。
男に逆らわなければ、こんな世界の空白地帯に連れて来られることもなかっただろうに。
気まぐれな狩人に捕らわれた、哀れな女。
目覚めれば、どんなに逆らったところで落とされる。
そしてあいつの欲する物の有りかを喋るしかないのだ。
後は享楽地獄に引きずりこまれ、骨の髄までしゃぶられる。
あたしは一つ部屋を置き、微かに漏れる睦みあう声を、夜となく昼となく聞かされるのだ。
名前を呼ばれれば食事を運び、頼まれれば女の世話をする。
自分でも愚かな行為だと知りつつも、甘く囁かれるあたしの名前に、否応なく従ってしまう。
連れて来られる女は代われど、面倒を見る女の存在は代らない。
それがあたしとあの男を繋ぐ信頼関係なのだと、漏れる喘ぎ声を部屋で耳にしながら、あたしは今夜も眠れない夜を過ごす。
呟くこと・・・囁くこと・・・ 関連作品
囁くこと・・・呟くこと・・・
End
2017/11/12 改稿
2010/08/06
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